昭和五十七年 七月十八日 朝の御理解

御理解 第二十二節 天地金乃神といえば、天地一目に見ておるぞ。神は平等におかげを授けるが、受け物が悪ければおかげが漏るぞ。神の徳を十分に受けようと思えば、ままよという心を出さねばおかげは受けられぬ。ままよとは死んでもままよのことぞ。

 受け物が悪ければおかげが漏るぞと、ほとんどの人が受け物が悪いから下さっておるおかげを、受け漏らしておると私は言えると思うですね。そこを一つ水も漏らさんというおかげを頂きたい。先日、四、五日前でしたでしょうか。阿倍野の伊藤コウ先生が亡くなられたという事を聞きましたんですけれども、女ながらも大変なお徳を受けられた方だと思いますが、あれだけの人が助かった、それこそ水も漏らさぬおかげを頂き、また誰でもあんなおかげを頂けるという事ね、お話しを頂いても別にこれが阿倍野の御流儀といったような信心を感じる事は出来ないのですけれども、いうならば先生御一代を、もうとに角、喜びであけ暮れられたという事です。 どんな場合であっても喜ぼうと、理屈はないですね、これは泉南教会の明渡先生のお話しですからもう、実際先生から聞かれたお話しだと思うですけれども、また、師範校に学校の先生をめざされてね、師範校にいってられる時に、ある時落語を聞かれたね、その時のそのお話しが継母と継子のお話しであった、その継子になるのがもうとにかく喜び上手で、どんな場合であっても、喜びに喜んで受けた、継母がそれがもうはがゆいから、なおさらまた皮肉な事をする、たとえば魚一匹をさらに付けるでも、頭だけ食べられないとこだけを付けたり、またはもうほんの尻尾のとこだけを付けたりするとこういうのです。
 お母さんが人の頭になれ人の頭になれというて頭のところを付けて下さるんだと、尻尾の時には、大阪あたりでは尻尾といわんで尾というんだそうですね、魚の尾のとこだけ付けて下さるのは、世の王にもなれよというて尻尾だけをつけて下さる、どちらにしても喜ぶもんだから継母さんが、しまえには腹を立てて真ん中のよかとこだけを付けるようにした、自分のようなものに、こんな身のとこ美味しいところだけを付けてもろうて有難い、とにかくどっちに転がしても有難い有難いで受けていったというね、その話を聞いて一心発起されたということですね。
 もう自分の生涯はこれで行こうと、それはやっぱあそこまでおかげ頂かれるには、様々な問題もあったらしいんですけれどもね、それが本当な事であった証拠に、いうならば、それこそ水も漏らさんようなおかげになってきて今日あのような御比礼にもなり沢山な人が助かる事になったね、
それを例えば合楽では最近では、一切神愛論といったような事を申します、論理の上で、何故喜ばねばならないか、有難い事なんだ、私はここ二日間身体が大変悪かったんですけども、本当にそんな苦しい時に、なかなか御礼などとは思われませけれども、昨日の朝にも聞いて頂いたように、結構な修行させて頂いて有難うございますというて御礼をその実感のある御礼ではなかったんですけれども、もう途端にね感動がおこって朝からむせび泣きするようなおかげを頂いた。
 そしてあの黄のスイカを頂いた、私は二日間の、まあ、苦しい事でしたけれどもそのおかげでです、昨日聞いて頂いたような体験をさせて頂きました。御礼を本当に申し上げれれるね、だから病気が病気なりでなおっただけでは、けどもそれを通して頂かせてもらう事が尊いのです今日はも朝から壮快ですから、いわばいつも当たり前のように思っておる健康の事がなを一段と有難く御礼が申し上げられる。ややもするとおかげに慣れてしまって実感のこもらない御礼になったり有難いになったり、やっぱ時々は痛い苦しい思いもするがいいというふうに思います、してみると痛い事も痛くない事もおかげなんですから、そういう理屈を抜きにして伊藤先生の場合は、もう、有り難い有り難いで受けられたという事ですよね。
 それが段々実感として御礼がいえれるようになった、成程喜んでさえおればおかげ頂かれるんだな、人も助かるんだなという事がいよいよ体験の上で考えられる事になった、初めていうならば一切神愛論といったような事が理屈をいわずにわかられたという感じが致しますね、合楽の場合はそれを論理的に解く訳です、一切神愛だと、だから御礼を申し上げる事ばっかりなんだと、ところが実際生身をもっておると痛い時は痛い、苦しい時は苦しいんだけども、だから痛い事苦しい事をいわばで、終わらせたらもうそこから実をいうたら神様が修行をさせて下さってあるね、強くもしてやろう、有難くもならせてやろうとする働きを無にする事になりますからそこからおかげが漏るという事になりましょうが。
 受け物が悪ければおかげが漏るぞとおっしゃるのはね、いわゆる喜びが足りない御礼が足りないという事になります。もう理屈ぬきにして、どんな場合でも、御礼を申し上げれる、それを御礼を申し上げていってるうちにその時には実感としての御礼ぢゃなくても、それが本当な事だから神様が昨日の朝私に感動を送って下さったようにです、それが段々本当なものになってきてそして理屈の上でいうならば成程、この世では無駄な事はない一切が神愛だなという事がわかってくるんです、だからここんところを実験実証していかなきやならない、喜んだり喜ばなかったりもうその喜ばなかったりという不平不足のなかとこからもうおかげが漏ってしまうのです。
 だから腹を決めにやでけん、もう一切神愛で頂く、も喜びで受けていこう一切を有難い有難いで受けていこうとする私は腹を決める事だと思うね、信心は、だからたまに最後にありますようにね、たまにですよ、それこそ度胸がいる、いうならままよというような心を出さねばならん時もありましょう、そういう例えば修行がまた限りなくある事でございましょうけれども、結局ならどんな時であっても、喜びで受けていこうと伊藤コウ先生が亡くなられたという事を聞きまして、とても普通の者では出来る事ではないですけれども、その内容がもう実意であり丁寧であられたという事、これは私はもう七、八、十年、にもなるでしょうかね高橋さん同道でとにかく朝あの先生の事を強く感じてとにかく生きておられる間に一遍その先生を間近に頂きたいという、止むに止まれん心でその朝の飛行機で大阪へまいりまして、泉南教会で一晩お世話になったんですけれども先生が、いや昨日はあそこの五十年祭でしたよといわれます。
 いやそんなこっ全然知らんでいったが、だから明日お会いするなら五十年祭の記念祭をお仕えになった一番喜びの頂点という時にお会い出来るわけですねというて、その晩は大変あちらでお世話になって朝まだやすんでおりました、丁度その日は泉南教会のお休みの日でした、あちらはお休みがあるんです教会、だから明日家はお休みだから早く起きてもらっちや困るといわれるもんですからね、ねとりました、そしたらあわてて先生が起こしきなさいましたもん、伊藤先生が見えましたよといわれる、もうビックリしてからもう本当に、ま、用意をしてまいりましたら、二代を継がれる御養子の先生とお二人で、お広前に見えておられました。
 もうお会いしてその後の私と伊藤コウ先生のまあ、対談的な、高橋さんが言われるのにもう二人ともとにかくありがとうございますありがとうございますでおわったち、もう恐れいってしまった。前の晩にこうして合楽から先生にお会いしたいというてからあちらの教会長ぐが見えとります、だから明日まいりましてもいいでしょうかという事を連絡をつけられたらしいんですね、それでそん時いわれりゃこっちが早く起きてでもいくのですけれども、ただそれを受けて下さっただけですから、わからなかったところが合楽が見えとるなら自分から、丁度京都の親教会が京都だそうですから、京都と甘木が親教会になってるんですね。
 あちらはそれに京都の方へ記念祭の御礼参拝をしょうと思うから、そちらえ参らせて頂くという事だったそうですが、私はもう道すがらと思った、泉南はところがそげなだんぢゃない十里位なところをわざわざ後戻りして泉南に見えとったんですからね、もこれには私も驚いてしもうた、ただ有難い有難いぢゃない、いやそのありがたいありがたいの内容がそういう行き届いた御信心、いうならば当時の私というたならば、ほんな田園教会のまだ名もない私が先生にお会いしたいというてきとるというてから、自分の方が会いに来て下さった、しかも御子息同道で会いに来て下さったね、もう後でそれは私は京都へ行く道すがらかと思ったら反対の方ですね、泉南教会というのは、それをこうまた見えるとてもとても誰でも真似の出来るこっちやなかでしょうが。
 それからしばらくしてでしたが、ある上方の方の先生が、やっぱり合楽教会に見えてその福岡に来て泊まっとるとこういわれるのです、それで明日はお目にかかりたいから、御参拝のおかげを頂きたいというて、いいですよ明日は私はおりますよちいうて返事してから、はあこれが阿倍野の先生なら福岡まで行かれるだろうと思いました。私共の実意とはその程度なものですもんね、ところが阿倍野の先生の場合はわざわざ私ぐらいなもんのところえ、やって来て下さったね、だから結局その有難い有難いのその権化のようなお方であったんですが、その内容がそのようないわゆるお道の信心のしんといわれる実意丁寧神信心が段々身についてこられたという事ですね、真似しようとして出来る事でもないけれどもです、とにかく一切を喜びで受ければこういうおかげが受けられるという私は手本を残して下さった先生だと思いますね。
 今日の御理解でうと水も漏らさんおかげ受けものがわるければおかげが漏る皆さん胸に手を置いとってみてごらんなさい、もう難儀な事の不平不足ばっかり、ただ結構な修行をさして頂いてるのにこんな修行もさせて頂いてと御礼もいわずにね、そしてどうぞうぞとばっかりいうとってはおかげを下さっとっても受け漏らす事がわかりますね、
 どうでもひとつ合楽で言われる合楽理念といい一切神愛論といい、そういう先生の御信心の内容から生まれてくるものならいよいよ間違いないと思いますですね。
        どうぞ